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浜名高校 令和5年度2学期始業式に寄せて
歴史を学んできた私にとって8月6日・9日・15日は特別な日です。すなわち6日と9日は日本に原子爆弾が投下された日、15日は日本がポツダム宣言を受託して降伏したことを国民に伝えた日であります。現在、8月15日は終戦記念日とされ、太平洋戦争で亡くなった方を慰霊する行事が各地で行われています。こうした催しと併せて、東京の靖国神社に参拝した政治家の名前も報じられています。靖国神社は、戦死した将兵をお祀りしている神社ですが、実は遠州の人々と深い関りのある社です。今日は、このことについて紹介したいと思います。
話は幕末に遡ります。慶応3年(1867)、15代将軍徳川慶喜が大政を奉還すると、薩長を中心とする討幕派は12月に王政復古の大号令を発して新政府を組織し、慶喜に辞官・納地を迫りました。これを不服とした幕臣たちは挙兵し、戊辰戦争が始まりました。そして、初戦の鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍は、有栖川宮熾仁親王を奉じて江戸城総攻撃のため下向しました。
この情勢に敏感に反応したのが遠州の神官を中心とする知識層でした。遠州は、賀茂真淵に代表されるように国学が盛んで、皇室を敬う気持ちの強い人が多かったので、有栖川宮を総司令官とする新政府軍に尽力しようと考えたようです。彼らは「遠州報国隊」という義勇軍を300人余で組織し、その内の80人余が、実際に新政府軍に随行しました。ちなみに現在の浜北区からは、高園・高畑・貴布祢・横須賀・中瀬の村々から8人の神職者が参加したようです。
江戸まで従軍した隊員たちは、約9か月間の間、新政府軍と行動を共にしていましたが、有栖川宮が帰京するタイミングで役目を終えたとして解散しました。多くの隊員は帰郷しましたが、一部の隊員はそのまま東京に留まりました。その後、東京残留組と遠州から再上京した者を加えた80名余は、戊辰戦争の戦死者を弔う「招魂社」の建立に深く関わりました。これが後の靖国神社です。併せて、招魂社に付設した研究機関として「招魂社祭典取調所」も開設しました。これが、現在の國學院大學の前身となります。つまり、靖国神社や國學院大學は遠州の神官たちによって設立されたと言っても過言ではないのです。
ここまで紹介してきた遠州の知識層の動向は、混乱した社会情勢のなかで、「遠州報国隊」入隊の有無に関わらず千差万別で非常に興味深いものがあります。唯一つ共通して言えることは、各々が時代に飲み込まれる傍観者であることを良しとせず、1人ひとりが自ら考え、正しいと判断した行動を取っていることです。
先行き不透明な現代は、幕末から明治維新の動乱期と類似するところがあると感じています。皆さんには、事の大小に関係なく、事が起きた時には立ち止まって見ているのではなく、自ら考えて最も適切だと判断した行動を取れるようになって欲しいと思います。
なお、私の願いと関連付け、夏休み期間中、遠州鉄道小林駅で具合の悪くなった方と遭遇した吹奏楽部の生徒2名が、その場で献身的な介助と必要な対応をしてくれたという報告があったことを言い添えて結びとします。
報国隊整列天龍川岸図(左)と戊辰之役報国隊記念碑(浜松市中区利町・五社公園内)