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浜名高校 学期終業式に寄せて
大河ドラマ「どうする家康」の影響で浜松城界隈は大いに賑わっているようです。浜松城は、徳川家康が天下統一の足掛かりを掴んだ城であるところから、「出世城」と言われていますが、その伝統は引き継がれ、江戸時代の歴代城主22人のうちの5人が「老中」にまで昇り詰め、その他も幕府の要職に就いています。今日は、その1人である「水野忠邦」の話をしたいと思います。
水野忠邦は、元は肥前国唐津藩6万石の城主でした。唐津藩には長崎警固という重要な任務がある一方、長崎貿易等によって得られる副収入があり、実際の経済力は公表されている石高の4倍はあったと言われています。有能で野心家だった忠邦は、いつしか国政を担いたいと思うようになりました。そこで、職務に精励するとともに、豊かな経済力を活かした政治活動を行って、異例の若さで「奏者番」という出世のカギとなるポストを掴みました。
ところが、唐津城主の出世には限界があることを知ると、多くの家臣が反対するなか、当時としては異例の「異動願」を提出しました。この願いは希望通り受理されて、彼は正真正銘石高6万石の浜松城主になりました。これを境に彼は出世街道をひた走り、「大阪城代」、「京都所司代」などを経て、念願の「老中」に就任しました。
幕府の中心人物となった忠邦は、「天保の改革」と呼ばれる政治改革に着手します。この改革は、当時から数えて約100年前の8代将軍徳川吉宗の政治を理想とするもので、質素・倹約の奨励、農業中心の閉鎖経済への回帰を目指しました。しかし、時代に合わないこの改革はわずか2年で頓挫し、忠邦も罷免されました。この政治は民衆から深い恨みを買ったようで、失脚した忠邦の江戸屋敷には石つぶてが多数投げ込まれ、浜松でも大規模な一揆や打ちこわしが発生しました。
私は、常々、人間の評価はその人物が「役割を終えた」或いは「居なくなった」時に何が残ったかで決まると考えています。ここで忠邦を否定するつもりは毛頭ありません。彼は、江戸幕府が理想としてきた「質実剛健の気風」「農業社会の維持」を誠実に追い求めて行った生粋の武士であったと思います。しかしながら、時代はもはや後戻りできないところまで進んでいただけなのです。そして、結果として、絶対であった幕府の命令が絶対ではないことを多くの人々が認識し、この25年後に幕府は崩壊しました。
間もなく、私たちは期待と希望に胸を膨らませた新入生を迎えることになります。皆さんは、これからの1年又は2年間で、後輩たちに一体何を残していくのでしょうか。私は、それを見ることが楽しみで仕方がありません。