2023.01.22

浜名高校 令和4年度3学期始業式に寄せて

若倭部身麻呂の歌碑(万葉の森公園内)と若倭神社(浜北区宮口)
 令和5年の年頭にあたり、今日は奈良時代に浜北に住んでいた無名の人物2人を紹介したいと思います。

 2人を紹介する前に、まずは彼らが登場する背景について話します。奈良に都が置かれる少し前、日本は唐・新羅の連合軍と白村江で戦って大敗しました。その危機的な状況の中、国防の拠点として「大宰府」が置かれ、東日本の諸国を中心に「防人」が動員されました。
 その後、日本と新羅の両国はこの緊張状態を回避する努力をし、奈良時代の初めには友好的な関係となりました。そのため、動員されていた「防人」も停止され、彼らが九州から帰国する様子が『正倉院文書』にも残されています。しかし、友好関係は長くは続かず、再び両国の関係は悪化し、やがて日本国内では新羅との戦争まで計画されることとなりました。

 ここで、1人目が登場します。彼の名は「物部浄人」と言います。平城宮跡の発掘調査で出土した木簡に、その名前と素性が刻まれていました。それによれば、彼は麁玉郡(現在の浜北区北部と推定)の出身で年齢は31歳、758年に日本から渤海へ派遣された使節団の下級役人だったことが分かります。
 この使節は、新羅と戦争をするため、その北方にある渤海の協力を取り付ける役割を担っていました。この外交交渉は成功し、その功績で使節団の一人であった彼にも国から褒美が出されました。当然、国内は新羅との戦争に拍車がかかりました。

 このような緊張した日羅関係に合わせて「防人」も復活することとなりました。ここで、2人目が登場します。再動員された「防人」の中に、「物部浄人」と同郷の「若倭部身麻呂」がいました。彼は、『万葉集』に「我が妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて よに忘られず(私の妻はひどく私を恋い慕っているらしい。飲む水に妻の面影さえ映ってきて、どうしても忘れることができない)」という歌を残しました。

 防人は、任期3年ということになっていましたが、ひとたび行けば帰ってくることはないということが常識化していました。こうした中で、「若倭部身麻呂」は妻と別れて九州へ向かったのです。その悲しみはいかばかりだったでしょう。 結果として、新羅との戦争は、他の事情による国内の混乱で中止されましたが、その後の「若倭部身麻呂」の消息を伝える記事は見当たりません。

 世界を見渡すと今もどこかで争いが起こっています。令和5年こそ、1日でも早く平和が訪れ「若倭部身麻呂」と同じ思いをする人がいなくなることを強く望んでいます。