2021.02.24

浜名高校の前身北浜裁縫義塾開校の由来


同心遠慮講は明治12年に始まり、一小期を10年とし、136年間続いた貯蓄組合です。

 遠虚構の名は、論語の衛の霊公篇の、人無レバ遠キ慮り必ズ有り近キ憂イ「人は遠い先のことまで考えて事を行わなければ必ずすぐ目前から憂いが生ずる」の戒めから名付けられ、実業家、平野又十郎が青年期に学んだ西洋式簿記と啓蒙していた報徳思想などから、この貯蓄組合で各自が未来に備えるための貯蓄と明治維新後の新しい時代の産業経済の基礎となるべき地域人材の育成を目的としたところに特色があった。
 毎月第3日曜日の午前に積金事務、午後は講員の産業経済の研究討議で、そのため購入された書籍を中心に、多くの新刊図書をそろえて遠慮講文庫を作り会員の読書に供した。これは民間図書館の第一号で、明治20年代、第二小期から始まり、第3日曜日に公開され定価の1%で一ヶ月間借覧することもできた。
 明治41年当時の平貴村と美島村が合併して北浜村となったとき、土地を提供していた平貴村東小学校跡を利用して構員を中心に貴布祢女塾を起した。これは遠虚構の発足当時は、男子に対して新しい時代の産業経済文化の素養を高めたのに対し、家庭における女子教養の重要性の認識からで、これが北浜裁縫女学校、北浜実科高等女学校、更に大正12年北浜高等女学校と充実をみ、地域の女子教育に果たした役割は極めて大きく、戦後男女共学の現浜名高校となった。昭和5年には幼稚園がこれらの人々の手で開園された。現在の北浜幼稚園の前身である。(明治44年 利町の私庭に浜松学芸高校の前身、浜松裁縫女塾も創立している。)
 日々の倹約貯蓄による資金を地域産業経済発達の基盤として百余年にわたる実績を残す一方、地域社会の人材開発に図書館の開設、女子教育の振興、幼児教育の着目など、同心遠慮構の果たした役割は極めて大きかった。なお、昭和54年より毎年学校教育振興基金として当時の浜北市に寄附をし、その利子今は市内小中養護学校の図書充実に当てられていた。

 平成26年3月をもって、長きにわたリ郷土の発展の為に貢献した
遠慮構も、その使命を終え解散した。
                     
旧浜名高校正門の同心遠慮講記念碑は第二小期完了の明治32年に建立された。