2020.06.19

訃報 太田保市先生89歳


長年浜名高校に勤務された太田保市先生が、15日心不全の為死去されました。
葬儀・告別式は近親者でとりおこなわれたとの事です。

以前、太田先生にご依頼した寄稿文を掲載させて戴きます。

三つの思い出

 私の在籍は、昭和29年4月より昭和53年3月までの24年間に及ぶ長い年月でした。
 思い出は山ほどありますが、書道の教員として3つだけ書いてみました。

その1はジャージの校名の字です。新原に住居していることでよく生徒諸君に会います。その時校名の字をみると「はずかしさとうれしさ]を感じます。その理由は『浜名』という字は私の書いた思い出の字だからです。この字は当時のサッカー部の監督美和利幸先生がサッカー部の胸のマークにと依頼されたものです。サッカー部の創設の部長の山下正義君が(18回卒業生)私のクラスでもありましたので喜んで書きました。原稿を渡す時に美和監督にも山下部長にも、この字は全国優勝の願いをこめて書いたので頑張ってくださいと言いました。
 そしてサッカー部は彗星のイレブンとして全国に名をはせ、昭和45年猛雨の中での決勝戦に勝ち、遂に全国制覇を果たしてくれました。今もその時の胸のマークが燦然として君達の胸に輝いております。

 その2は校門に人るとすぐ左側に詩人三好達治先生の作詞による校歌の石碑があります。この字も私の書いたものです。「卒業記念として学校に残したいという昭和47年度の卒業生の強い要望ですので是非書いてほしい」と、学年主任の岸井一男先生のご依頼によるものです。
 この校歌の制定への意気ごみは強いものでした。三好達治先生は校歌は作らないというのを、国語の故鈴木周一先生の大変なご努力で時間をかけてお願いし、岩木寺の伴星旅館にご巡留願ってやっとできたということで、当時の生徒・職員は小躍りしてよろこびました。結局三好先生の生涯で校歌は、3つしか作成しなかったときいております。

 その3は西門の校名の表札(体育館の西側、現在は門の柱と門札のみ残っている)です。
 昭和37年9月、小林の地に校舎新築完成全面移転となりました。貴方祢校舎は、校地4,000坪で狭少、設備も不十分でした。移転を考えた政和佐明一校長は「政村松保恵教頭の地元出身たる利点をフルに活用して……地元貴方祢の一部の人達の執拗な反対運動等いろいろの障害もあったが……」と後になって述懐されていました。
 全面移転の際、生徒1人1人が各自の机と椅子を歩いて、貴方祢から小林までみちんだ運んだ姿が今でも目に浮かんできます。
 生徒の努力、職員の熱意、卒業生の努力、保護者の熱意等が現在の浜名高校になったものだと信じています。

長年の功績に感謝し、ご冥福をお祈り申し上げます。