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<第三回> 数学の先生が英語を教える
※写真は昭和11年度の笠井職業女学校正門(現在の笠井中学校)
教師の見た揺籃期の浜名高校:中村 昭
開学した新高校は、前述したように笠井と貴布祢に分散していて、
時に合同職員会議が笠井で開催された事もあったが、どんな事
案が議論されたかは全く憶えていない。
忘年会を兼ねた自己紹介の会であったかもしれない。ただ校長は
両方の運営に大変だろうな~と思っていた。
加えて、社会変革の時期の教育目標の設定、カリキュラムの作成、
人事構成、予算等など。
就職2年目になると、新たに数人の教員が加わった。校長も代わ
っていた。それでも教員の不足から英語の担当を校長から依頼
された。
私は英語の教員免許は持っていなかったが、戦後のドサクサで問
題にならなかった。
しかし、これは苦痛であった。大体 英語教育の目的も授業の方法
も知らないからである。昔の中学時代を思い出して、読んで訳して
という事しかしなかった。
しかも、敵国語という理由で、上級学校の入学試験科目からも英語
が排除された世代で育った私の英語力は極めてpoorであった。
生徒も迷惑であったと思う。
「英語を勉強しておけ」という校長の私に対する配慮だったかもしれ
ない。
後年、私はノースカロライナ大学(アメリカ)の助教授に招かれて、
セミナー等を担当したが、発音の悪い(英語の日本的方言、いわゆる
“Japanese English”のような)私の英語には学生(アメリカ人)も悩ま
されたらしい。
しかし、私の専門の知識で学生達は最後までついてきた。2年間の滞
在をおえて帰国するころ、やっと会話に不自由しなくなったが… 。
つづく