2012.04.18

<第六回> 貴布祢校舎

教師の見た揺籃期の浜名高校:中村 昭

この貴布祢の校舎は前が運動場で、そこを横切って玄関にアプ
ローチする。
2回建ての木造校舎の下の左側が事務室で右側が職員室にな
っていた。

その建物の下をくぐって奥に昔の裁縫室らしき部屋があった。夜
にはこの部屋が宿直室になる。


※現在の浜北駅(旧貴布祢駅)

運動場は土であった。毎朝、電車を貴布祢駅(当時の名称)で降
りて町の路地を通って、それから運動場を横切って玄関に到達す
る。雨の降る日は靴が泥まみれになるので、これを避けるために、
遠回りして貴布祢神社の横から入る事もあった。

この校地はどうなっているだろうか?貴布祢神社は健在だろうか?
駅の周辺は? その変貌ぶりを機会があれば訪れてみたい。勿論
まだ見た事もない現在の学校も。


※現在の貴布祢神社(左側)正面は文化センター

2年目になって、男子生徒が入学してきて野球するようになった。
ソフトの部とグランドをどのように使い分けたか憶えていない。
これが、現在の強い野球部の原点かもしれない。

こんなグランドでほこりと汗にまみれて、生徒と一緒になってボール
を追った。

バレーボールのクラブも元気であった。土のコートでの練習には気
の毒な思いがした。

<旧校舎は現在浜北文化センターに>

大きな地図で見る

ある時、教頭の富永先生から校地の測量を依頼された。何の目的
か知らなかったが(そのころ移転の話しが進んでいたのかな~)、喜
んで引き受けた。

私は数学科の学生の頃、測量学とその実習の単位を習得していた
ので、放課後に数人の生徒と一緒に平板三角測量を始めた。
敷地内には校舎があるので、境界追跡(border following)型をとった。

この方法は、ときに大きな誤差を生ずるが、ピタリと最終的にあった
ときは、われながら感心した。今頃はGPSによるのが普通である。
図面と面積を計算して、富永先生に提出した時に、先生も大変喜ば
れた。

つづく